傲慢と善良の感想
大きな書店でも小さな書店でもこの本を目にしないことはありませんでした。
人生で1番刺さった小説との声多数と書かれた帯に発行部数も刻まれており、数十万部だったこの本の部数はあっという間に50万を超え、70万、ついに100万を超えていきました。
近年は漫画に押され勢いを失いつつある文芸界ではこういった何十万部売る本はものすごく少ないです。私は中学のころから読書が好きでアラサーになった今でもなんだかんだ続いています。読書歴10年以上でしょうか。
この本はかなりの名作であることはまちがいないです。現代社会の結婚、恋愛、自意識、他者とのかかわり方、コミュニティでしか通用しない価値観などが大きなテーマでしょうが、これらのテーマはおそらく10年経っても残ったり、強まったりするものが多いでしょう。中には消えていくものがあるとは思いますが10年もしたらまた別の大きなテーマが登場しその時もこの本に書かれていたことが大きく役立つことになるでしょう。
結婚と真実が持つ『ブランド』
現代は自由恋愛至上主義、結婚は家と家から、個人と個人の関係に変化したとされています。家や社会が定めた相手と結婚せず、表面上のところでは自分が好きな相手と生涯の人生を歩んでいくようになりました。
決め手の要素はいろいろあると思いますが、容姿、年齢、人柄、価値観、経済力、お育ちのよさ、直感などがあるでしょう。よく誤解されることですが、家と家の結婚(政略結婚も含む)の場合でも容姿は評価の一つでありました。不細工で有名な貴族、皇太子も縁談は断られることはあったようです。
この点では架はかなり恵まれています。小中高の間で人気をもってきたことがあります。天然もののモテ男です。
対して真実はどうでしょうか、控えめで真面目で親や周囲から守られてきたでしょう。真実はその真面目さと控えめさ、もっと詳しく言うと親の常識、教師や大人に受けがちな主張しない子という周囲のイメージ通りに行動することで守られてきました。そんな真実は中高大のお嬢様学校を卒業し、地元に残り、親の知り合いの政治家の先生の紹介でお役所の仕事を得ました。私の感覚からすれば議員と親がつながっているというのもなかなか珍しいと思いますがそれは地方によるのでしょうか。
想像するに真実の育ったようないわゆる地方では地元のお嬢様学校を卒業すること、地元に残って役所に勤めることはかなりレールに敷かれてはいますが、そのレールへの安心感、ブランドイメージはかなりあるでしょうね。私の地元の話にはなりますが、入学先に千葉中、稲毛中などを選び、稲毛高校、市立千葉、千葉東などから千葉大教育学部に進学し千葉銀行や県庁、教師を目指す人生設計は親世代の受けが抜群で同世代の集まりでもきちんとした王道のピカピカになります。きっと近所では(OO君のように)あんたもがんばればよかったのにとか言われるでしょう。実際、こうした人生を歩むにはかなりの努力が要求されることでしょう。卒業後もそれなりに良い暮らしができることでしょう。フルタイム共働きであれば、打瀬(千葉市民の中で憧れの街の一つ)、幕張、千葉駅や千葉みなと近郊に戸建てやマンションも現実的になってきます。
マウンティングには私は積極的にかかわるつもりはありませんがいわゆるカードでしょうね。
真実について
確かに地域では有名なお嬢様学校を卒業し、役所の仕事に就いています。親元から離れず役所に勤める真実はたしかにレールが持つ安心感やブランドに乗っているように見えます。しかし、卒業したお嬢様学校は雙葉や桜蔭ほどの全国的なブランド力はありませんし進学実績もおそらくあまり高くありません。ただし書きで一応をつけないとお嬢様的ではないかもしれません。役所の仕事も正規で公務員試験を突破したわけでもなさそうですし。より小さなローカルブランドといっていいかもしれません。古豪的な。
真実の母親はお嬢様である真実のブランドを大事にはしているものの、ブランドの中身を見ることができていません。せっかくのお嬢様学校もそれほど難易度が高いものでもありませんし、役所も試験を突破した正規でもないですし、真実自身がやりたいことでもないのでしがみつくものとは言えません。それなのに母は真実のブランドを過大評価してしまいます。結婚市場において真実は確かにお嬢様と一応は呼べるかもしれませんが、とても高い人気を得るほどのブランド力を過度に期待はできません。だってローカルブランドですからね。
慶応卒で広告代理店に就職した架とはブランドが違います。真実の持つ真面目で控えめなイメージは、結婚市場で家庭的な良妻賢母タイプとみなされることもありますが架の方は全国的なブランドであるのに対し、真実の方はローカルなブランドです。過大評価して挑むと傷つくことも増えるでしょう。真実はレールで育てられた箱入り娘なので悪く言えば井の中の蛙的なところもあります。真実の親は自身のブランドを過剰評価してしまっており、親の言いつけを聞く素直な真実も自己評価を当然どこかで高く見積もってしまう。真実はどこかそこに無自覚なのです。